奏でることと葬送、さそうあきら『おくりびと』
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◇「作曲家や演奏家は錬金術師であって、地上世界が、その実体や魂と天国の音楽のこだまとの共鳴によって変容する際にその手助けをする。そのとき、それらの地上におけるこだまもまた天国で聴きとられ、両者のあいだの懸隔はほとんどまったくなくなってしまう。これは、本来の錬金術にも似て、全自然界の救済や人間とその超個人的存在(オーヴァーセルフ)との再統合をめざす音楽による錬金術という偉大な仕事の完遂を意味する」(ジョスリン・ゴドウィン『異星の音楽』)
◇「バッハの作品のなかに客観的に封じ込められている力動にふさわしいのは、ただその力動を現実化するような演奏だけである。なぜなら、真実の演奏は作品のレントゲン写真であり、演奏には認識が楽譜への沈潜から獲得する諸々の特徴と連関すべての全体を感覚的現象のうちで現出させる義務があるからである。……音楽が一般に演奏を必要とする限り、音楽の形式法則は作曲上の本質と感覚的現象の間の軋轢のなかにある」(テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノ「バッハをその愛好者たちから守る」)
◆『バッテリー』の滝田洋二郎(監督)+小山薫堂(脚本)、主人公小林大悟役の本木雅弘+小林美香役の広末涼子による映画『おくりびと』(モントリオール世界映画祭グランプリ受賞)が、納棺師による死出の旅支度の様式美とそれを補完するチェロの旋律美によって、服喪という共有体験にもとづく共感と感涙を誘う佳作だとすれば、そのタイアップとして企画された本作、さそうあきらの新作は、プロットと舞台をほぼ同じくしながらもその志向するものにおいて、決して軽微ではない相違を抱いている。
◆東京のとある交響楽団の突然の解散により山形県酒田市への帰郷を余儀なくされた主人公のチェリスト小林大悟は、趣味でピアノを演奏する「日曜ピアニスト」の妻・小林美香とともに、亡き実母と出奔した実父が残した生家での新生活を始める。さしたる希望もないまま求職した小林大悟は、帰郷の翌日の求職活動で即決採用されたNKエージェントでの初仕事、性同一性障害に苦悩したのちに自死を選んだ男性の納棺で社長の手仕事に魅了される。しかしそれも束の間、腐乱死体、縊死死体、事故死体への納棺経験の衝撃によって辞職を決意する、が、遺族の心をときに揺さぶりながらも鎮めていく出来事のなかで再びその仕事に価値を見いだしはじめる。
◆にもかかわらずその矢先、妻に明かせずにいた仕事内容が露見したのちに訪れる妻との別れ、娘を交通事故で亡くした両親が自己の張本人に罪の償いの例として挙げた浴びせた納棺師=忌むべき仕事との指摘、妻の納棺を嚆矢として現職に就いたという社長の自伝、亡き夫のチェロを代奏しながらの納棺、幼年期のチェロとの再会、無名のホームレスの孤独死への弔い、馴染みの銭湯「鶴の湯」経営者との死別、30年前に別れた父の弔報。これら数々のエピソードを織りこみながら構成された本作は、しかし単にオリジナルである映画作品を後追いすることも深追いすることもなく、納棺とその周縁エピソードという仮設舞台と共生しながら、ある一点を志向する。
◆「ある一点」とは、本作をその続編であるかのように思わせる、さそうあきらの前作との連続性にも関わる。『神童』(双葉社/全3巻)と『マエストロ』(双葉社/全3巻)において、それぞれ天才ピアニストと天才ヴァイオリニストの挫折と栄光を描写しながら、本作で描写されるのは所属交響楽団の解散によって他楽団からの入団依頼もないまま帰郷せざるをえなかった凡庸なチェリストの肖像。物語の進行とともに彼の挫折からの回帰がクローズアップされるのだが、妻との感情的な意味での斥力と引力からなる緊張関係のなかで、因襲的な地縁共同体の雰囲気を色濃く残したかつての成長環境のなかで、譜面に書き起こされることのない自然音源のなかで、彼がオーケストラにおける個人の超絶技巧とそのハーモニーを獲得するのとは別の次元での回復を果たすのは、記憶の女神ムネモシュネーと秩序と美の男神アポロンとが癒合する地点、「技術と記憶という二つの才能」(ジョスリン・ゴドウィン(斉藤栄一訳)『異星の音楽』工作舎)がともに開花する地点。納棺師の仕事を嫌悪して妻に去られた直後、チェロ演奏ができなくなる技術的な危機に襲われた小林大悟は、経営者亡き後の「鶴の湯」での帰ってきた妻との無名のヴァイオリン・ソナタ演奏という技術的な復活を契機として、これに導かれるようにして、父の記憶をたどりはじめる(かつて父との間で交わした「石文」のエピソードが妻との間で静かに回顧される)。
◆そもそもその回復が到来する予兆は、早くも作品の冒頭で風雪降りしきる駅のホームで小林大悟が演奏する、作曲者名としては唯一その名が明示されているバッハの(おそらく)「無伴奏チェロ」演奏に求められる。本作が、凡庸なチェリストの獣たち(自然)との交流による技術的精神的な復調の軌跡を記した宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」(『新編・銀河鉄道の夜』新潮文庫)とその基礎構造を共有しながら異なる点は、「セロ弾きのゴーシュ」が「印度の虎狩」(エヴァンズ作曲)という伝統的クラシックに抗するアンコール曲をもって復調に至ったのに対し、本作があえてきわめて伝統的なクラシックであるバッハの「無伴奏チェロ」を回復の予兆として利用する点にある。「バッハの作品のなかに客観的に封じ込められている力動にふさわしいのは、ただその力動を現実化するような演奏だけである。なぜなら、真実の演奏は作品のレントゲン写真であり、演奏には認識が楽譜への沈潜から獲得する諸々の特徴と連関すべての全体を感覚的現象のうちで現出させる義務があるからである」(テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノ(渡辺祐邦訳)「バッハをその愛好者たちから守る」『プリズメン』ちくま学芸文庫)」。このようにして「音楽が一般に演奏を必要とする限り、音楽の形式法則は作曲上の本質と感覚的現象の間の軋轢のなかにある」(同上)からこそ、バッハを古典化する力に反して小林大悟のバッハ演奏は、むしろこの「軋轢」を引き受けながら、単に楽曲に賦役する従士ではない自律的な演奏者としての使命を予感させる狼煙となる。楽曲のなかの因襲的な価値観を否定する演奏者の「自由な精神」が生まれるのが「芸術が自らに内在する材料を対象的な観照へともたらすことによって生じる、芸術自体の作用」だとすれば(G・W・F・ヘーゲル(長谷川宏訳)『美学講義』作品社)、その力をバッハの楽曲が内在し、演奏者がこれを現実化する。
◆さそうあきらの前作と接続するこの「一点」を志向しながら、本作はこれまでの作品に潜在していた死のテーマと正面から向きあってもいる(死のテーマは『マエストロ』におけるフルート奏者橘あまねの阪神大震災での両親との死別として登場しており、このテーマとの連続性も注目に値する)。その意味で、小林大悟における音楽的な意味での「技術と記憶」が同時的に復活するその地点は、納棺という労働(work)のプロセスを通じて出逢う人が各人各様の喪の作業(mourning work)を執り行なうなかで記憶の糸を紡ぎなおしていく地点と重なりあうのは偶然ではない。相愛と憎悪あるいは歓喜と悲嘆が折り重なりながら、音楽的な復活を遂げた後に訪れる死せる父との対面と喪の作業の遂行のシーンは、それまで冗談まじりの対話を溶けこませて構成されていた本編の要素をストイックに断ち切って、時間の感覚を感じさせない沈黙のなかで展開される。あまりに美しすぎるこの最終景が、しかしただの幻想ではなく現実感を失わないとすれば、それはおそらく一様に幸福な死だけではなく(自殺率の急増という今日的な問題点も含めて)不幸な死を描くことを忘れない作者さそうあきらのバランス感覚によることは疑うべくもない。オリジナルの映画作品との併読でも補読でもなく、映画作品がその技術的限界から捨て去った死角を浮かびあがらせるものとして、本作はそのオリジナリティにおいて異彩を放っている。
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