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世界の終わりの「正しい」えがきかた、新井英樹『真説ザ・ワールド・イズ・マイン』

2008年8月26日 00:25 | 爆裂読書日記 | By: ピエールいがらし





真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス) 真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス)
新井 英樹
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◇「世界の終りを幻視する精神は、同時に新しき世界の誕生を欲する心情と一つのものである。……ユートピアと逆ユートピアとは楯の両面である」(澁澤龍彦『夢の宇宙誌』

◇「黙示録とは……人間のうちにある不滅の権力意志とその聖化、その決定的勝利の黙示にほかならない……。たとえ今は殉教の業苦を忍ばねばならないとしても、そして、この目的の実現のために全世界が壊滅されねばならないとしても、おお、クリスト教徒たちよ、なんの怖れることがあろう、君たちだけは王者としてこの世を統べ治らし、かつての暴君たちの首根っこを土足にかけることも出来るというものだ!」(D・H・ロレンス『黙示録論』

◆世界崩壊は、『創世記』の大洪水とノアの方舟のエピソードを遠くて近い神話的起源とする。そして、『創世記』の延長線上にある『ヨハネの黙示録』の破壊的呪詛の数々は、キケロとセネカをして時間の支配から逃れた世界が現前するための世界の絶滅としての「カタクリモス」(変災=大動乱)というパースペクティヴをもたらす。さらに時代は下り舞台は移り、楳図かずお『14歳』(小学館)をおいてほかに、コミック作品におけるその創作的起源はない。もちろん楳図作品が大人のいない子供だけの自閉世界を表象した『漂流教室』(小学館)において、ある種の戦時の「疎開の記憶」を描いたと仮定するなら、この起源説は直裁に「戦争体験」という共通記憶を指しているものとしてすっかり書き換えられなければならない。が、いずれにしても、世界崩壊の神話ないし作品は、崩壊とそれに連動する無からの創造(creation ex nihilo)にコミットするという点において、「世界の終りを幻視する精神は、同時に新しき世界の誕生を欲する心情と一つのものである」(澁澤龍彦『夢の宇宙誌』/河出文庫)という澁澤龍彦の言葉は至言というべきで、このカップリングから逃れた作品は駄作として消滅するか傑作として賞賛されるかという二分法に巻き込まれる。

◆しかし新井英樹『真説ザ・ワールド・イズ・マイン』(エンターブレイン)は、この予定調和的な青写真を軽々と乗り越えていく。いかなる伏線もなく連れ添いあった自閉症的ニートにして爆薬密造者・三隅俊也と絶対的な力と自己肯定を信じながらも犬が苦手な「モン」(通称「トシ・モン」)によるプラスチック爆弾無差別散布による連続殺戮、その破壊と殺戮に歩調を合わせるようにして雪山から出現した『ヨブ記』の地上獣=ベヘモットのごとく地上の生命を蹂躙する羆(通称「ヒグマドン」)……四六判全5巻合計3,000頁という一大長編叙事詩の序章を飾るのは、まずはこの未曾有のカタストロフィーの二重奏。

◆青森西警察署の占領と雪山への逃亡、宮沢賢治『なめとこ山の熊』の如く羆との憎悪を越えたハンターとライターの追跡を物語の横糸にして、逃走の途上での羆と「トシ・モン」との想像上の邂逅……ロベルト・シューマン作曲のピアノ独奏曲と同名にして「夢想」の意をもつ「トロイメライ」と題された章において、「モン」は殺人機械から一転して他者の痛みに共感する聖人へと回心する。この回心と入れ替わりに殺意を平常心と相即させはじめる三隅俊也は、モンの暴力性に戦慄しながら魅かれる少女・阿倍野マリア(通称「大館のマリア」)に出会う。三人となってふたたび繰り返される街路の殺戮から山中への逃亡は、三橋俊也の逮捕(後に彼に殺された遺族によって私刑=死刑)、阿倍野マリアの射殺に終わるが、マリアとの死別の哀しみを抱えたモンは、もはやその生死も定かではないままいつしか捕縛の手を逃れ、聖人のごとく世界を遊歩する。

◆佳境を迎えた物語は、「トシ・モン」のプロットが後景に退くにしたがって、羆のプロットが前景にあらわれる。生け捕りにされアメリカ合衆国の生物型兵器と判明した羆はアメリカ合衆国への海上護送中、突如として巨大化、『エノク書』および『ヨブ記』に登場するレヴィヤタンのごとく空間を統べる海獣へと豹変する。人知人力を遥かに凌駕するこの獣に対してついにアメリカ大統領による水爆攻撃指令が下るも、この指令は世界同時的な水爆投下のトリガーを引き、やがて水爆による世界の終焉を描出したところで作品は、終章という名の新たな展開を迎える。

◆新版に寄せた作者・新井英樹の言葉によれば「原罪をしょって人間の生命がはじまったと言うなら、僕も世界がはじまる瞬間を描いてみたかった」。この作品のなかで描かれた自己目的化した大量殺戮は、たしかに作者のエゴイスティックな願望充足のための誇大妄想と思えなくもない。しかし、それまでは遵守されていた道徳律が破戒されたあとに残る世界、万人の万人に対する闘争というホッブス的世界、この世界秩序が溶解していくプロセスをそれに比例する暴力の激化という視点からとらえた点で、本作を「道徳の教科書」と定義する作者自説は、道徳の崩壊過程を通じて道徳が永遠のものでも絶対的真理でもないとする、いわば逆説的な道徳論となりえている。

◆聖人のごとく表象されながら最終的にはテロリストと接近するところまでが描かれる「モン」の造形に関しては、連合赤軍的イデオロギーのあまりに美的すぎる残響ということから一定の留保をせざるをえないし、水爆後の世界崩壊から20億年後の世界をもって世界創造を表象する結末に関しても、ニューエイジ思想の直裁にすぎる援用ということから一定の留意が必要かもしれない。しかし、2001年9月11日のアメリカ合衆国同時多発テロリズムを幻視したかのような預言的トーンは、偶然とはいえ、この作品がその深奥に潜ませた潜勢力の深度を証明している。

◆この潜勢力は、世界没落の幻想がつねに特権階級の没落の期待に満ちた予感(ジェルジ・ルカーチ)とも、進歩主義イデオロギーによって推進される平等主義的民主主義に対する貴族主義的民主主義からの批判に準拠した終末論的ヴィジョン(シャルル・ボードレール)とも解釈できるが、いずれにせよある種の黙示録的語調に貫かれている。「いまだ」現実化されてはいないが「すでに」潜在的には(予兆あるいは予感としては)現実化の一歩前まで到来している、世界再生の希求と背中合わせの世界崩壊のヴィジョンを、したがってこの黙示録的な破壊劇は提示する。そして黙示録とは、「人間のうちにある不滅の権力意志とその聖化、その決定的勝利の黙示にほかならない」(D・H・ロレンス『黙示録論』/ちくま学芸文庫)とすれば、作者・新井英樹をしてこの作品を構想=実現せしめたその根源には、「道徳の教科書」というナイーヴな表現の皮膜に覆われた真皮としての現実批判への意志がある。作者自身に固有の個人的怨念とおそらくは綯い交ぜになったままの漠とした世界嫌悪という外観をとりながら、それを現実から切り離された悪戯にも似たフィクションにすぎないという評価に、しかしこの黙示録的作品は抵抗する。反ユートピアの表現によってユートピアを暗示するという巧妙な業によって。

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