傷としてあること、森下裕美『夜、海へ還るバス』
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◆「私は自問する、おのれの誇り
(ジャン・ジュネ「綱渡り芸人」『
◆トラウマという言葉はかつてな
◆前作『大阪ハムレット』(双葉社/『週刊アクション』連載中/第10回文化庁メディア
◆はじめはその提案に理解を示し
◆癒えることの決してない、傷。
◆物語は傷に始まり傷に終わる。
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赤い文化住宅の初子 (F×COMICS) 松田 洋子太田出版 2003-06 売り上げランキング :Amazonで詳しく見る by G-Tools |
◆広島の名は条件反射的に原子爆弾の焦土を想起させる。それは、決して世界初の被爆都市のレッテルをステータスに転換して平和都市とするマクロポリティックスの功績ばかりではなく、むしろ被爆からの復興と連動した市民運動としてのポピュリズムの力によるところが大きい。このポピュリズム的な連帯の大きな一歩を記したひとつが、広島とコミックのわかちがたい絆をはじめて結んだ中沢啓治『はだしのゲン』(汐文社/『週刊少年マガジン』連載)であり、以来、2004年に刊行後じわりと支持を得てきた、こうの史代『夕凪の街桜の国』(双葉社)まで、この連鎖の道は絶えることなく続いている(広島平和思想の系譜のなかにこの二つの作品を定位する試みについては、東琢磨『ヒロシマ独立論』(青土社)を参照)。
◆そこでこの作品、松田洋子『赤い文化住宅の初子』だが、この作品には戦中から戦後をつなぐ広島の痕跡はおよそ見つけがたい。「赤い文化住宅」という言葉はどことなくそれらしさを醸し出すが、作品中、これが主人公・初子に亡き母がすすめてくれたモンゴメリ『赤毛のアン』からのアナロジーであることが仄めかされる。広島の痕跡のある広島に代わって、広島の痕跡のない広島のなかで繰り広げられるのは、つねに重いためいきを吐き散らすことをやめない、秩序破壊者「赤毛のアン」とは似ても似つかない、コンフォルミスト・中学生初子の下流ライフ。
◆蒸発した父、過労で逝去した母、妹を養いつつデリヘルに執心の兄、そして初子からなる宇野一家は、しかしすでに家族=家庭としては風前の灯。初子は場末のラーメン屋でアルバイトをするも、心を寄せる同級生の三島くんと約束した高校進学は経済的に絶望状態。中学卒業後は就職の道を選ぶことにするが、その間にも蒸発したはずの父との再会と別離、その父の焼身自殺による自宅全焼、高校進学後も交際の続いていた三島くんとの別離と、果てしなく受難は続く。この絶望のなかにあって、三島くんの存在は輝く一瞬の希望に見えるが、彼と初子の純愛の可能性はすでに初子のほうから徹底して断念されている。
◆たとえば……初子「なあ」三島「おん?」初子「いきなりうちがおらんなったら心配する?」三島「するわあ」初子「東高の制服着て宮通りで仕事せん方がええ?」三島「すなぁや」「大人んなったらわしの嫁さんにするんじゃけ」……(初子)「この約束だけでいつまでもしあわせにくらしてしまえそうなよ」。純愛どころか将来の体面を計算したうえで甘美な言葉を放つ三島のあざとい善意に気づいたうえで初子は、希望を抱かせるのが三島という特定の個人ではなく、家族の再生についての「約束」であることを心中で明かしているように見える。
◆さらに……高校進学後の三島との公園デートで、公園を徘徊するホームレスを見て、己の将来を重ねて不安を感じる初子に対し、「宇野はそんな心配せんでええけ」「わしがおるがぁっ!」とマッチョな宣言を繰り出しながらも、蒸発した父と兄との諍いに混乱する初子からの電話に、塾での授業中のために応答できない三島との見えがたい境界線は、いわば二人の生活世界を隔てる格差の尖端として露呈される。
◆その意味で、家を全焼で失って転居する初子との別れのシーンで、永遠の別れを意識した初子に「わしらは家族んなってホームドラマにするんじゃ」という三島に対して初子が返す言葉「ふん」のトーンは、どのように解するべきだろう?「どんなんなっても家族になろういうてくれる人がおったら希望は終わらんよ」という初子の最後の言葉をナイーヴに勘案すれば、それは同意のサインともとれそうだが、同時に三島の言葉を鼻で笑う嘲笑ともとれる(それまでの文脈から後者の可能性は濃厚だが)。後者の解釈をとるなら、現代日本社会ともリンクする本作の下流ライフにあって、中学生にして受難の道を歩まざるをえない社会の機能不全に呪詛を向けるにせよ、そのなかでも生き残るのは、国家でも社会でも世間でもなく、(どのような形態をとるかは別として)家族という最小単位のコミュニティへの悲喜劇的な儚い希望であるという、ある意味では絶望的な期待をこの作品は教えてくれる。暴力と貧困の苗床であり、もはや痕跡としてしか機能しない家族は、しかし未だ子どもたちに価値観を与える希望の灯であることをやめない(斎藤環『家族の痕跡』筑摩書房)。
◆最後に松田洋子の狡猾に洗練されたスタイルについて一言。かつて80年代のバブル時代、その地下層に流れる汚泥のようなルンペンプロレタリアートたちの肖像を量産していた反時代的作家・いましろたかし(『初期のいましろたかし』(小学館)参照)の如く、トーン大量添付+細線濫用の最近の潮流とは相容れない画筆は、特筆に価する。そしてそれ以上に、哀しみと怨みと諦めが絶妙な割合で配合された初子の両眼は、あえて時流への逆行をねらった意図の有無はともかく、「下流」というアカデミズムとマクロポリティックスの結託から生まれた汚名を転用してスティグマとし、まだ見ぬ家族という幻想のために個人の自律を確立しようとする、ある美しい矜持をたたえている。
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period (1) (Ikki comix) 吉野朔実小学館 2004-05-28 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
◆児童虐待、ネグレクト、夫婦間暴力、父母殺害、近親姦……「ドメスティック・ヴァイオレンス」と総称できるこれらの暴力はすべて地域共同体から隔 絶された密室と化した家庭内で蛮勇を奮い、地域共同体そのものでもはずの学校での「いじめ」の激増とともに、もはやニュースで聞かない日は珍しいほどにな りつつある。
◆ただし、「ドメスティック・ヴァイオレンス」と「いじめ」というテーマは、娘がイグアナに見える母と娘の相克を描いた萩尾望都『イグアナの娘』(1994年/小学館/『プチフラワー』連載)など、その原型はすでに用意されているし、そもそも学園ものの少女コミックでこのテーマに触れないものはほぼ皆無。最近の例なら、ドラマでも複層化した粘着的ないじめの描写が話題を呼んだ、すえのぶけいこ『ライフ』(講談社)はまさにその典型。本作、吉野朔実『period』はその土壌から育まれた作品とひとまずは言える。
◆母は家を出て戻らないまま父・鏡嶋戒人と3人で暮らす兄・鏡嶋迥(はるか)と弟・能(よき)の兄弟の物語は、日々くりかえされる父の暴力に耐えか ねた兄による鈍器殴打殺人未遂を境に、脳血栓からくる記憶障害と身体付随を負った父の人格変貌にはじまり、経営難から借金を負った叔父夫婦による家の売却 後、山中の児童養護施設に舞台を移行、そこで兄弟を取り巻く施設児童たちへの教師と児童たちのいじめがはじまる……。
◆兄弟目線で作品がつくられているためか、父や教師や児童からの暴力のその理不尽レベルについては読む者の共感(≒あわれみ)を誘う。理知的な兄弟 が「ドメスティック・ヴァイオレンス」も「いじめ」も解決していくプロセスは、とりわけ兄の内省的な葛藤(父からの遺伝的気質のひとつ)や弟の暴力的傾向 (もうひとつの父からの遺伝的気質)を挟みながら、もうほとんど道なき道の獣道。ただ、あまりに理知的に造形された兄弟像には、(理知的であるかどうかを 問わず被害者を襲う点に現在の「ドメスティック・ヴァイオレンス」「いじめ」の特異性があるとすれば)少々リアリティを感じさせないところもある。しかし だからといって、暴力の被害者は弱者だからステレオタイプな弱者イメージにはめこんで読者の憐憫(≒優越感)をかきたてる人物造形をほどこせばそれでい い、というわけでもないのは当然。そのあたりのバランス感覚がどのように配合されるかは、今後の作品の展開次第(この点が解決されれば、水谷修を題材にし たドキュメント作品、土田世紀『夜回り先生』(小学館)と双璧になることも)。
◆現在2巻まで刊行された本作の要は、地下根茎のように連鎖・増殖する暴力の不可解さにフォーカスを当てたところにある。とりわけ児童養護施設への移転後から弟が見せはじめる父ゆずりの暴力気質というか嗜虐性は、シェイクスピア『ハムレット』で の父の亡霊から復讐を迫られる王子ハムレットを思い起こさせもするし、児童虐待はひとつの発達障害とする近年の精神医学研究を連想させもする。また、兄弟 による母を唯一の例外とする女性嫌悪(ミソジニー)は、あるときは父に好意を寄せたあとに謎の事故死を遂げた担任教師に、あるときは財産を狙う叔母に、あ るときは入院後の父と近親婚的な内縁関係を結んだ叔母・華に向けられ、ときに暴力的な拒絶を辞さないその徹底した嫌悪感は、その反動として暴力の失われた 同性愛的兄弟愛として結実する(この嗜虐性と被虐性の連鎖のなかに取りこまれた男同士の絆は、萩尾望都によっても作品化されたジャン・コクトー『恐るべき子どもたち』を思わせるが……それにしても「24年組」の呪縛は今なお健在)。
◆「ドメスティック・ヴァイオレンス」「いじめ」という現代の病理ともいえる暴力をピュアなモラリストとしてただ告発するのではなく、植物的に増殖 する暴力のループ構造に分析的に着眼し、なおかつBL的要素もけっして忘れない折衷感覚。もちろんそれこそが本作の魅力だが、その傾向は同時に、リアリズ ムにもファンタジーにも接岸しないどっちつかずの難破状態にとどまる危険とも背中合わせでもある。その結末は、第2巻でさらなる不幸に襲われた兄弟の今後 が描かれる第3巻以降に乞うご期待。
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土星マンション 1 (1) (IKKI COMICS) 岩岡ヒサエ 小学館 2006-10-30 売り上げランキング :Amazonで詳しく見る by G-Tools |
◆宇宙を情景にした作品といえば、古くは手塚治虫『火の鳥』や『機動戦士ガンダム』シリーズなど、闘争と恋愛の男性原理から逃れられないのが定石だが、宇宙飛行士を夢見る少女たちのSFファンタジー柳沼行『ふたつのスピカ』(メディアファクトリー/2008年5月現在・全14巻/『月刊コミックフラッパー』で連載中)以来、今や風前の灯の男性原理に依らないというターニングポイントを迎えている。つねに新機軸の作品を世に問う雑誌『IKKI』に連載中の岩岡ヒサエ『土星マンション』(小学館/1〜3巻)もまた、このターニングポイントの一翼を担う作品のひとつ。
◆土星リング型コロニーの窓掃除夫として働いていたが不慮の事故により不帰の人となった父と死別した少年ミツは、父の死の謎を探すように=父の死の跡を追うように、父の属した労働組合に所属し父と同じ仕事に就くことを選ぶ。父は自分を捨てて(自然保護地区として訪問を禁じられた借景としての地球へと落下することで)自死を選んだのではないかという父への懐疑、玄人肌の職人「仁」との友好、風貌こそ恐ろしいがミツを優しく気遣う「影山」との家族ぐるみのつきあい、父の最期に立ち会ってから窓掃除夫を辞した「タマチ」とのつかずはなれずの関係、人に愛され支えられるミツへの反感を隠さない「真」とのもつれた関係。これら数々の人々との出逢いを通じ、窓掃除夫の仕事に習熟し、すでに抱えていた微弱な人間不信から回復する少年ミツの成長譚……本作の第一の特徴はまずこの点に要約できる。
◆そして同時に本作の第二の特徴は、ミツが窓を隔ててふれあう依頼人とのタブーを越えた絆という点に求めることもできる。まずこのタブーは、さまざまなイデオロギーとヘゲモニーによって経済格差や政治混乱など諸問題を解決できないまま国家間・民族間・個人間に闘争という名の分断線を張り巡らせ永遠平和の理念から遠ざかること久しい現在の地球社会とは異なるが、つねに排除と疎外を生みだすこの格差・差異の論理を「上層/中層/下層」という単純化された階級制として継承し、格差社会を保持している土星リング型コロニーの社会構造にある。窓掃除を発注する上層界の住人は、窓掃除を受注する下層界の住人と交流することは原則としてタブーとされる。しかしこのタブーを破戒していくミツの一歩が、本作に多くの劇的展開をもたらす。海鮮養殖業者の田抜による窓外を水で満たしてほしいとの信じがたい依頼、仁の旧友の妻との再会、遠隔操作掃除機の開発者による嫉妬にもとづく無理難題、母の庇護下で自由を制限された少女との交流、影山との交流を望む子供たちのねがい……。
◆禁じられているはずの上層・下層間の交流が実現する直接的なターニングポイントは、たしかにミツの個人的意志による越境にあるかのように見える。しかし、ミツの越境は、このタブーが禁止できずにいる唯一の例外状態を前提としてはじめて成立する行為でもある。この例外、下層界の住人にさえ認められる権利、それは異邦人が上層界に足を踏み入れても、それが平和的行為であるかぎり、たとえ死を与えるのでなければその侵入者を退去させることはあっても上層界の住人から敵意をもって処遇されることはないという訪問権。人間愛でさえなく純粋に法的な概念としてのこの訪問権が保証されるところに、『土星マンション』のほがらかで性善説的な牧歌的ドラマは生まれる。
◆土星リング型コロニーに平和的秩序をもたらすこの例外権としての訪問権の起源は、絶対王制時代の国際的闘争状態の解決としての地球上での永遠平和を思索したイマニュエル・カント『永遠平和のために』に帰せられる。永遠平和のための第三確定条項のなかで訪問権の保証を宣言したカントはその論拠を、球形であるがゆえに無限には分散できず誰ひとりとして他人以上に所有権を有することもできず共存せざるをえない地球の幾何学フォルムに求め、さらには「人間の意志に逆らってでもその融和を回復させる合目的性」を備えた「自然」に永遠平和の論拠を求める。その意味で、現在の地球から空間的にも時間的にも離れているはずの『土星マンション』の世界システムは、休戦状態という妥協的な平和ではなくポジティヴな意味での永遠平和を基礎とするカント的世界像に奇妙なほど一致する。
◆あまりにカント的なこの世界は、地球から離脱する浮力に支えられた円環コロニーで繰り広げられる物語でありながら、同時に地球という球形の重力に引き寄せられた形でしか平和を維持できない。そのため本作は、くらもちふさこ『天然コケッコー』(集英社)あるいは羽海野チカ『ハチミツとクローバー』(集英社)のような善人たちによる喜怒哀楽が織りなす穏健なファンタジー世界を展開するだけにも、さらには単にエクソダスという近未来予想図というだけにも終始しない。むしろ本作の登場人物が繰り広げる人間関係に破壊性のないやわらかな質感が感じられるとすれば、それはひとえにこの世界の住人たちが、「偉大な技巧家」である自然法が命じる永遠平和の摂理に従属しているためであり、その意味では闘争なき理想的世界像というカントの夢想の正確な縮図、現在の地球社会にとって傾聴すべきテーゼを提示するという真摯な一面も、この作品の価値向上に重要な一役を演じている。
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浅野いにお『おやすみプンプン』1・2巻(小学館/2007年8月〜2008年1月)
◆スタイリッシュなヴィジュアル構成と時代感覚を鋭利にとらえたプロット構造に定評がある、新世代の旗手・浅野いにおの新作(『週刊ヤングサンデー』で連載中)は、これまでの『素晴らしい世界1・2』『ひかりのまち』『ソラニン1・2』(すべて小学館)の世界観を踏襲しつつも、当然のことながら作風の変更が散見される。
◆やや誇張的で戯画的なまでに病理化された新興住宅街という名の小社会、突発的な怒りと憂いの間を往来するスキゾイドないし憂鬱気質の登場人物たち、崩壊寸前ないしすでに一家離散状態にある核家族家庭、社会を渡り歩くためにニュートラルな人格とは快的な人格を共存させる多重人格的ペルソナを帯びた主人公……これまでの作品に共通するこれらのピースは、現代社会諷刺の含意をこめられたまま本作でもほぼそのまま用いられてはいる。しかし本作では、小学生男子の主人公「プンプン」とその父母および叔父が極端にデフォルメされた「ひよこ」として造形されるという、これまでには見られなかった改変が施されている。
◆この大胆で意表をつく改変のもとで展開される舞台は、『虹ヶ原 ホログラフ』(太田出版/2006年)と同じく小学校の日常生活。ただ、父による母への暴行というややショッキングな情景を冒頭に配置するものの、蝶の大量発生や失踪した女子生徒や奇怪な都市伝説といった「いかにもそれらしい」舞台装置で黙示録的雰囲気を醸しだしていた『虹ヶ原 ホログラフ』とは異なり、小田扉『団地ともお』(小学館/1〜11巻[以下続刊])ほどではないにせよ、女子転入生の登場、秘密基地の探検、家庭の問題、恋愛の話、性の目覚めなど、さほど珍しくもない平凡な日常感覚が保たれる。
◆また同時に、浅野いにお作品の専売特許ともいうべき、友人や近親者とは決定的に相容れないという冷徹な離人感覚は、たしかに「プンプン」のデフォルメ造形とその他の人びとのリアリズム造形から読みとれる。しかし、これまでの作品のような人間憎悪は影をひそめ、裏切れば殺すとまで言わせてはいるが基本的には主人公への直情的な愛情表現を示してやまない転入生「田中愛子」と主人公との恋愛ゲームが中心の世界観は、主人公の仲間の転校などの事件を挟みながら、ありふれた思春期にありがちな古典的テーマ(つねに批評性のある仕掛けを忘れない浅野いにおに「あえて」敬意を表するならば、擬・古典的テーマ)に回帰しているように見える。
◆誇張的なまでに歪んだ内面世界と外部世界との分離からの回復というこれまでの表現形式から、ノスタルジックとも思えるほどに古典的な世界の表現への、いわば作品の試行の変遷を、浅野いにお作品のなかでどのように位置づけるべきか。不可解を越えた笑いを誘おうと試みてのことか奇人変人の類を多く登場させる本作の人物造形は、古い話になるが古谷実の『行け!稲中卓球部』(講談社/全13巻)の人物造形を思わせる。ただ、その古谷実が学園群像喜劇に徹した『行け!稲中卓球部』から『グリーンヒル』(講談社)『ヒミズ』(講談社)に至って笑いから病理的な世界像の再構築による現代社会の解明へとシフトしていったのに対して、浅野いにおの志向するベクトルは、明らかにその真逆に向かう。
◆この作風の変更の成否は、早くも中学生編に突入する次回作・第3巻に委ねるほかない。たが、たとえ純愛路線の追求という本作のこれまでの路線が以後も貫かれるにせよ、かすかにバランス感覚を失した世界のなかで展開される純愛であることに変わりはない。その意味では、作品の方向性が今後いかなるところに帰結しようと、依然として浅野いにお作品の固有性は保たれるまでにその世界観が確立されていることは間違いない。そして、このような作家の固有性を表わすスタイルの固定が浅野いにおについては吉(安定読者層の獲得)と出るか凶(同語反復的な作風のマンネリ化)と出るかも、今後の展開次第。