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Category: 爆裂読書日記


ジェンダー・トラブル、菅野文『オトメン(乙男)』

2008年11月19日 01:20 | 爆裂読書日記 | By: ピエールいがらし

459218419X オトメン(乙男) 6 (6) (花とゆめCOMICS)
菅野 文
白泉社 2008-08-19
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◇「望むがままに読んでほしい。望むがままに解釈してほしい! そして数分の間私の母のために涙することで、私の眼のなかでしばし死せるこの母、だがあなたの眼のなかで私を生かすために数年の間涙しつづけてきたこの母のために涙することで私が冒したことを、誰かがわかってくれさえするなら……」(アウグスティヌス『告白』9, 12, 33

◆剣道部主将にして「男のなかの男」正宗飛鳥、眉目秀麗にして「男の憧れの的」都塚りょう、無類の女好きの橘充太、この三人を軸に展開される正統派学園恋愛ロマンス……というカバー装幀を一見したときの第一印象を軽やかに打ち砕くのがこの作品。トランス・ジェンダーの物語でもクロス・ドレッシングの物語でもなく、性同一性障害の物語でも同性愛の物語でもなく、料理と裁縫とかわいい雑貨が大好きな正宗飛鳥とあらゆる格闘技を操る都塚りょうが繰り広げる、いわゆる異性愛的恋愛譚であることにかわりはないが、しかし「ジェンダー・トラブル」とでも言うべきものが作品中で展開される。

◆「女」になりたいと言い残して逃亡した父に置き去りにされた母のために男に同一化しようとする正宗飛鳥が、柔道有段者にして剣道部主将を務めあげようとする行為は、きわめて紋切型の「男」の外形をなぞったパロディにすぎない。さらに彼のなかで執拗に繰り返される偽装としての「男」に対する真実としての「女」の側面もまた、裁縫と料理とかわいい雑貨を愛でるというクリシェとしての女性像のパロディでしかない。このような「男」と「女」の境界線上でのせめぎあいは、少女漫画作家としての秘密を抱える橘充太の作品ソースに利用されるなどして作品のなかで主軸に据えられ、凝った昼食やあみぐるみなどのディテールで読む者を楽しませてくれる。

◆ただし、この「男」と「女」のパロディとしてのパフォーマンスは、かえって模倣しているはずのオリジナルがそのようなパフォーマンスを無限に反復することでしか成立しない非自然的で人為的なものであることを明かしているという、ジェンダーへの新たな視点を図らずも提供していることも見逃せない。「ジェンダー化された永続的な自己とは、アイデンティティの実体的な基盤の理想に近づくように、反復行為によって構造化されたものであることが判明するが、他方でその反復行為は、ときおり起こる不整合のために、この「基盤」が暫定的で偶発的な〈無−基盤〉であることも明らかにする」(ジュディス・バトラー(竹村和子訳)『ジェンダー・トラブル』青土社[1999])。その意味では、正宗飛鳥という「男」を演じる「女」の実体をもつ「男」と、都塚りょうという「女」を演じる「男」の実体をもつ「女」との、新しいジェンダー配合のカップリングという作品が意図していると思しきテーマ設定は、文化的意味であれ生物学的意味であれ性差というものがすべて起源を欠いたパロディによる構成体でしかない以上、まったく問題がないわけではない。

◆それに代わってもうひとつ、この作品は、登場人物がいずれもある秘密を伝えようとする告白(カミング・アウト)の物語でもある。正宗飛鳥と都塚りょうは性差にまつわる秘密(ただし、これについては作品の冒頭部分で早々と告白される)、橘充太は少女漫画作家としての秘密、正宗のライバルである多武峰一はメイク趣味の秘密、正宗のクラスメートである黒川樹虎はフラワーアレンジメント趣味の秘密と、おもに男性登場人物がクリシェとしての「男」のカテゴリーから逸脱する倒錯的趣味を抱えてその秘密を告白する情景が随所に配置される。通常ならば性同一性障害ないしトランス・セクシュアリズムにおいて適用されるカミング・アウトが、友人たちの前での告白として翻案されるところに、この作品のソフトBL的な魅力が育まれる(ただし、性差の攪乱をテーマとするこの作品のなかで異性愛体制が遵守されつづけるところに、やはり幾分の留保がなくはない)。

◆作者自身が単行本欄外で「自分の趣味ではない」と断言したことがにわかに信じがたいほどの完成度をもって展開される「乙女チック男子のラブコメディ」は、まずは随所に散りばめられた乙女系ディテールで、さらに登場する男が次々に乙女に変貌していく変身譚で、この作品は読者を飽きさせることがないのも事実。最新刊の第6巻ではハードなビジュアル系ボーカルがガールズ系ポップスを愛する思いとの間で思い悩むところに正宗飛鳥が巻き込まれる場面で終結を迎えるが、今やこの作品の固有語法となった表現方法をもって、今後も「乙女チック男子のラブコメディ」を押し進めていくだけの躍動感と潜勢力をこの作品は備えている。


奏でることと葬送、さそうあきら『おくりびと』

2008年10月2日 00:17 | 爆裂読書日記 | By: ピエールいがらし

4091821979 おくりびと (ビッグコミックススペシャル)
さそう あきら
小学館 2008-08
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◇「作曲家や演奏家は錬金術師であって、地上世界が、その実体や魂と天国の音楽のこだまとの共鳴によって変容する際にその手助けをする。そのとき、それらの地上におけるこだまもまた天国で聴きとられ、両者のあいだの懸隔はほとんどまったくなくなってしまう。これは、本来の錬金術にも似て、全自然界の救済や人間とその超個人的存在(オーヴァーセルフ)との再統合をめざす音楽による錬金術という偉大な仕事の完遂を意味する」(ジョスリン・ゴドウィン『異星の音楽』)

◇「バッハの作品のなかに客観的に封じ込められている力動にふさわしいのは、ただその力動を現実化するような演奏だけである。なぜなら、真実の演奏は作品のレントゲン写真であり、演奏には認識が楽譜への沈潜から獲得する諸々の特徴と連関すべての全体を感覚的現象のうちで現出させる義務があるからである。……音楽が一般に演奏を必要とする限り、音楽の形式法則は作曲上の本質と感覚的現象の間の軋轢のなかにある」(テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノ「バッハをその愛好者たちから守る」)

◆『バッテリー』の滝田洋二郎(監督)+小山薫堂(脚本)、主人公小林大悟役の本木雅弘+小林美香役の広末涼子による映画『おくりびと』(モントリオール世界映画祭グランプリ受賞)が、納棺師による死出の旅支度の様式美とそれを補完するチェロの旋律美によって、服喪という共有体験にもとづく共感と感涙を誘う佳作だとすれば、そのタイアップとして企画された本作、さそうあきらの新作は、プロットと舞台をほぼ同じくしながらもその志向するものにおいて、決して軽微ではない相違を抱いている。

◆東京のとある交響楽団の突然の解散により山形県酒田市への帰郷を余儀なくされた主人公のチェリスト小林大悟は、趣味でピアノを演奏する「日曜ピアニスト」の妻・小林美香とともに、亡き実母と出奔した実父が残した生家での新生活を始める。さしたる希望もないまま求職した小林大悟は、帰郷の翌日の求職活動で即決採用されたNKエージェントでの初仕事、性同一性障害に苦悩したのちに自死を選んだ男性の納棺で社長の手仕事に魅了される。しかしそれも束の間、腐乱死体、縊死死体、事故死体への納棺経験の衝撃によって辞職を決意する、が、遺族の心をときに揺さぶりながらも鎮めていく出来事のなかで再びその仕事に価値を見いだしはじめる。

◆にもかかわらずその矢先、妻に明かせずにいた仕事内容が露見したのちに訪れる妻との別れ、娘を交通事故で亡くした両親が自己の張本人に罪の償いの例として挙げた浴びせた納棺師=忌むべき仕事との指摘、妻の納棺を嚆矢として現職に就いたという社長の自伝、亡き夫のチェロを代奏しながらの納棺、幼年期のチェロとの再会、無名のホームレスの孤独死への弔い、馴染みの銭湯「鶴の湯」経営者との死別、30年前に別れた父の弔報。これら数々のエピソードを織りこみながら構成された本作は、しかし単にオリジナルである映画作品を後追いすることも深追いすることもなく、納棺とその周縁エピソードという仮設舞台と共生しながら、ある一点を志向する。

◆「ある一点」とは、本作をその続編であるかのように思わせる、さそうあきらの前作との連続性にも関わる。『神童』(双葉社/全3巻)と『マエストロ』(双葉社/全3巻)において、それぞれ天才ピアニストと天才ヴァイオリニストの挫折と栄光を描写しながら、本作で描写されるのは所属交響楽団の解散によって他楽団からの入団依頼もないまま帰郷せざるをえなかった凡庸なチェリストの肖像。物語の進行とともに彼の挫折からの回帰がクローズアップされるのだが、妻との感情的な意味での斥力と引力からなる緊張関係のなかで、因襲的な地縁共同体の雰囲気を色濃く残したかつての成長環境のなかで、譜面に書き起こされることのない自然音源のなかで、彼がオーケストラにおける個人の超絶技巧とそのハーモニーを獲得するのとは別の次元での回復を果たすのは、記憶の女神ムネモシュネーと秩序と美の男神アポロンとが癒合する地点、「技術と記憶という二つの才能」(ジョスリン・ゴドウィン(斉藤栄一訳)『異星の音楽』工作舎)がともに開花する地点。納棺師の仕事を嫌悪して妻に去られた直後、チェロ演奏ができなくなる技術的な危機に襲われた小林大悟は、経営者亡き後の「鶴の湯」での帰ってきた妻との無名のヴァイオリン・ソナタ演奏という技術的な復活を契機として、これに導かれるようにして、父の記憶をたどりはじめる(かつて父との間で交わした「石文」のエピソードが妻との間で静かに回顧される)。

◆そもそもその回復が到来する予兆は、早くも作品の冒頭で風雪降りしきる駅のホームで小林大悟が演奏する、作曲者名としては唯一その名が明示されているバッハの(おそらく)「無伴奏チェロ」演奏に求められる。本作が、凡庸なチェリストの獣たち(自然)との交流による技術的精神的な復調の軌跡を記した宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」(『新編・銀河鉄道の夜』新潮文庫)とその基礎構造を共有しながら異なる点は、「セロ弾きのゴーシュ」が「印度の虎狩」(エヴァンズ作曲)という伝統的クラシックに抗するアンコール曲をもって復調に至ったのに対し、本作があえてきわめて伝統的なクラシックであるバッハの「無伴奏チェロ」を回復の予兆として利用する点にある。「バッハの作品のなかに客観的に封じ込められている力動にふさわしいのは、ただその力動を現実化するような演奏だけである。なぜなら、真実の演奏は作品のレントゲン写真であり、演奏には認識が楽譜への沈潜から獲得する諸々の特徴と連関すべての全体を感覚的現象のうちで現出させる義務があるからである」(テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノ(渡辺祐邦訳)「バッハをその愛好者たちから守る」『プリズメン』ちくま学芸文庫)」。このようにして「音楽が一般に演奏を必要とする限り、音楽の形式法則は作曲上の本質と感覚的現象の間の軋轢のなかにある」(同上)からこそ、バッハを古典化する力に反して小林大悟のバッハ演奏は、むしろこの「軋轢」を引き受けながら、単に楽曲に賦役する従士ではない自律的な演奏者としての使命を予感させる狼煙となる。楽曲のなかの因襲的な価値観を否定する演奏者の「自由な精神」が生まれるのが「芸術が自らに内在する材料を対象的な観照へともたらすことによって生じる、芸術自体の作用」だとすれば(G・W・F・ヘーゲル(長谷川宏訳)『美学講義』作品社)、その力をバッハの楽曲が内在し、演奏者がこれを現実化する。

◆さそうあきらの前作と接続するこの「一点」を志向しながら、本作はこれまでの作品に潜在していた死のテーマと正面から向きあってもいる(死のテーマは『マエストロ』におけるフルート奏者橘あまねの阪神大震災での両親との死別として登場しており、このテーマとの連続性も注目に値する)。その意味で、小林大悟における音楽的な意味での「技術と記憶」が同時的に復活するその地点は、納棺という労働(work)のプロセスを通じて出逢う人が各人各様の喪の作業(mourning work)を執り行なうなかで記憶の糸を紡ぎなおしていく地点と重なりあうのは偶然ではない。相愛と憎悪あるいは歓喜と悲嘆が折り重なりながら、音楽的な復活を遂げた後に訪れる死せる父との対面と喪の作業の遂行のシーンは、それまで冗談まじりの対話を溶けこませて構成されていた本編の要素をストイックに断ち切って、時間の感覚を感じさせない沈黙のなかで展開される。あまりに美しすぎるこの最終景が、しかしただの幻想ではなく現実感を失わないとすれば、それはおそらく一様に幸福な死だけではなく(自殺率の急増という今日的な問題点も含めて)不幸な死を描くことを忘れない作者さそうあきらのバランス感覚によることは疑うべくもない。オリジナルの映画作品との併読でも補読でもなく、映画作品がその技術的限界から捨て去った死角を浮かびあがらせるものとして、本作はそのオリジナリティにおいて異彩を放っている。


世界の終わりの「正しい」えがきかた、新井英樹『真説ザ・ワールド・イズ・マイン』

2008年8月26日 00:25 | 爆裂読書日記 | By: ピエールいがらし

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス) 真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス)
新井 英樹
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◇「世界の終りを幻視する精神は、同時に新しき世界の誕生を欲する心情と一つのものである。……ユートピアと逆ユートピアとは楯の両面である」(澁澤龍彦『夢の宇宙誌』

◇「黙示録とは……人間のうちにある不滅の権力意志とその聖化、その決定的勝利の黙示にほかならない……。たとえ今は殉教の業苦を忍ばねばならないとしても、そして、この目的の実現のために全世界が壊滅されねばならないとしても、おお、クリスト教徒たちよ、なんの怖れることがあろう、君たちだけは王者としてこの世を統べ治らし、かつての暴君たちの首根っこを土足にかけることも出来るというものだ!」(D・H・ロレンス『黙示録論』

◆世界崩壊は、『創世記』の大洪水とノアの方舟のエピソードを遠くて近い神話的起源とする。そして、『創世記』の延長線上にある『ヨハネの黙示録』の破壊的呪詛の数々は、キケロとセネカをして時間の支配から逃れた世界が現前するための世界の絶滅としての「カタクリモス」(変災=大動乱)というパースペクティヴをもたらす。さらに時代は下り舞台は移り、楳図かずお『14歳』(小学館)をおいてほかに、コミック作品におけるその創作的起源はない。もちろん楳図作品が大人のいない子供だけの自閉世界を表象した『漂流教室』(小学館)において、ある種の戦時の「疎開の記憶」を描いたと仮定するなら、この起源説は直裁に「戦争体験」という共通記憶を指しているものとしてすっかり書き換えられなければならない。が、いずれにしても、世界崩壊の神話ないし作品は、崩壊とそれに連動する無からの創造(creation ex nihilo)にコミットするという点において、「世界の終りを幻視する精神は、同時に新しき世界の誕生を欲する心情と一つのものである」(澁澤龍彦『夢の宇宙誌』/河出文庫)という澁澤龍彦の言葉は至言というべきで、このカップリングから逃れた作品は駄作として消滅するか傑作として賞賛されるかという二分法に巻き込まれる。

◆しかし新井英樹『真説ザ・ワールド・イズ・マイン』(エンターブレイン)は、この予定調和的な青写真を軽々と乗り越えていく。いかなる伏線もなく連れ添いあった自閉症的ニートにして爆薬密造者・三隅俊也と絶対的な力と自己肯定を信じながらも犬が苦手な「モン」(通称「トシ・モン」)によるプラスチック爆弾無差別散布による連続殺戮、その破壊と殺戮に歩調を合わせるようにして雪山から出現した『ヨブ記』の地上獣=ベヘモットのごとく地上の生命を蹂躙する羆(通称「ヒグマドン」)……四六判全5巻合計3,000頁という一大長編叙事詩の序章を飾るのは、まずはこの未曾有のカタストロフィーの二重奏。

◆青森西警察署の占領と雪山への逃亡、宮沢賢治『なめとこ山の熊』の如く羆との憎悪を越えたハンターとライターの追跡を物語の横糸にして、逃走の途上での羆と「トシ・モン」との想像上の邂逅……ロベルト・シューマン作曲のピアノ独奏曲と同名にして「夢想」の意をもつ「トロイメライ」と題された章において、「モン」は殺人機械から一転して他者の痛みに共感する聖人へと回心する。この回心と入れ替わりに殺意を平常心と相即させはじめる三隅俊也は、モンの暴力性に戦慄しながら魅かれる少女・阿倍野マリア(通称「大館のマリア」)に出会う。三人となってふたたび繰り返される街路の殺戮から山中への逃亡は、三橋俊也の逮捕(後に彼に殺された遺族によって私刑=死刑)、阿倍野マリアの射殺に終わるが、マリアとの死別の哀しみを抱えたモンは、もはやその生死も定かではないままいつしか捕縛の手を逃れ、聖人のごとく世界を遊歩する。

◆佳境を迎えた物語は、「トシ・モン」のプロットが後景に退くにしたがって、羆のプロットが前景にあらわれる。生け捕りにされアメリカ合衆国の生物型兵器と判明した羆はアメリカ合衆国への海上護送中、突如として巨大化、『エノク書』および『ヨブ記』に登場するレヴィヤタンのごとく空間を統べる海獣へと豹変する。人知人力を遥かに凌駕するこの獣に対してついにアメリカ大統領による水爆攻撃指令が下るも、この指令は世界同時的な水爆投下のトリガーを引き、やがて水爆による世界の終焉を描出したところで作品は、終章という名の新たな展開を迎える。

◆新版に寄せた作者・新井英樹の言葉によれば「原罪をしょって人間の生命がはじまったと言うなら、僕も世界がはじまる瞬間を描いてみたかった」。この作品のなかで描かれた自己目的化した大量殺戮は、たしかに作者のエゴイスティックな願望充足のための誇大妄想と思えなくもない。しかし、それまでは遵守されていた道徳律が破戒されたあとに残る世界、万人の万人に対する闘争というホッブス的世界、この世界秩序が溶解していくプロセスをそれに比例する暴力の激化という視点からとらえた点で、本作を「道徳の教科書」と定義する作者自説は、道徳の崩壊過程を通じて道徳が永遠のものでも絶対的真理でもないとする、いわば逆説的な道徳論となりえている。

◆聖人のごとく表象されながら最終的にはテロリストと接近するところまでが描かれる「モン」の造形に関しては、連合赤軍的イデオロギーのあまりに美的すぎる残響ということから一定の留保をせざるをえないし、水爆後の世界崩壊から20億年後の世界をもって世界創造を表象する結末に関しても、ニューエイジ思想の直裁にすぎる援用ということから一定の留意が必要かもしれない。しかし、2001年9月11日のアメリカ合衆国同時多発テロリズムを幻視したかのような預言的トーンは、偶然とはいえ、この作品がその深奥に潜ませた潜勢力の深度を証明している。

◆この潜勢力は、世界没落の幻想がつねに特権階級の没落の期待に満ちた予感(ジェルジ・ルカーチ)とも、進歩主義イデオロギーによって推進される平等主義的民主主義に対する貴族主義的民主主義からの批判に準拠した終末論的ヴィジョン(シャルル・ボードレール)とも解釈できるが、いずれにせよある種の黙示録的語調に貫かれている。「いまだ」現実化されてはいないが「すでに」潜在的には(予兆あるいは予感としては)現実化の一歩前まで到来している、世界再生の希求と背中合わせの世界崩壊のヴィジョンを、したがってこの黙示録的な破壊劇は提示する。そして黙示録とは、「人間のうちにある不滅の権力意志とその聖化、その決定的勝利の黙示にほかならない」(D・H・ロレンス『黙示録論』/ちくま学芸文庫)とすれば、作者・新井英樹をしてこの作品を構想=実現せしめたその根源には、「道徳の教科書」というナイーヴな表現の皮膜に覆われた真皮としての現実批判への意志がある。作者自身に固有の個人的怨念とおそらくは綯い交ぜになったままの漠とした世界嫌悪という外観をとりながら、それを現実から切り離された悪戯にも似たフィクションにすぎないという評価に、しかしこの黙示録的作品は抵抗する。反ユートピアの表現によってユートピアを暗示するという巧妙な業によって。


壊滅の序曲、間瀬元朗『イキガミ』

2008年8月15日 00:37 | 爆裂読書日記 | By: ピエールいがらし

4091532810 イキガミ 1―魂揺さぶる究極極限ドラマ (1) (ヤングサンデーコミックス)
間瀬 元朗
小学館 2005-08-05
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◇「賽子一擲……民主主義は神の望みであり、偶然の望みであり……」(ジャック・ランシエール『民主主義への憎悪』)
◇「その不可視の「海」の広がりの全貌を知る者は一人もいない」(道場親信『抵抗の同時代史—軍事化とネオリベラリズムに抗して』)

◆あらゆるところに、政治家=マリオネットたちが踊る劇場政治の後背に、街路に、家庭に、マイノリティをおびやかす力の影。森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫へと連なる、エラスムス『痴愚礼賛』の轍を踏みなおすような痴愚政治は、これに対する批判がこの愚者のゲームに加担することを意味するところから、もはやその批判そのものがむしろ批判者自身の愚かさを表明してしまうまでに事態が悪化している。ただし同時にこのペダンティズムの間隙を縫うように、洞爺湖サミット開催での世界政治への示威表明という光の裏側では、日米安保体制の再履行を意味する沖縄アメリカ軍基地移転計画、投票率低下に眼をつけて寡頭制衆愚政治を狙う国民投票制度の画策など、恐怖政治への道は着々と敷きつめられようとしている。

◆『イキガミ』が情景とする世界は、このように無痛のままに恐怖政治化が完了した事後の社会。一見したところ、この社会内の人々は自由と平等を(それと自覚せずに)享受して生存しているかに見える。しかし、この社会を律する国家とは、ワクチン接種と同時に18歳から24歳の間に1,000人に1人の確率で心臓破裂をもたらすカプセルをロシアンルーレットのように体内に注入する、「「死」への恐怖感を植えつけることによって、「生命の価値」を再認識させることが目的」とされる「国家繁栄維持法」を公布+施行し、通称「逝紙[イキガミ]」と呼ばれる通達書による死の宣告を24時間前に本人に告げることをも義務化した国家。その地方公務員であり主人公でもある死刑通達人=郵便配達人が訪れるとき、宛先人とその家族の間には悲喜劇の果てのセンチメンタリズムに満たされたヒューマニズム・ドラマが生まれる。

◆「逝紙」を受け取った人々の末路は、過去のいじめの復讐を繰り返しながらも虚しさから最期はいじめに遭う少年を鼓舞して果てる男、メジャーデビューの擬似餌と引きかえに相方と別れたものの最期には過去の二人の創作曲を歌って果てるストリート・ミュージシャンの男、ディレクターとなって番組を任された男が駆けつけるものの延命薬の過剰摂取により果てる女。歩くことをやめた女性の亡夫の代わりを務めることで存在理由を見つけて果てる養護老人ホーム職員の男。その性善説的な人物造形に支えられた浮薄なヒューマニズムの価値については措くとして、この「逝紙」の着想源が戦時中の「召集令状=赤紙」であることが早くも第2巻で明かされ、やはりこの「赤紙」を巡っても同様のヒューマニズムが展開される。

◆「逝紙」が無作為抽出によって被死刑宣告人を選定して配達されるというシステムは、民主主義の原理に誠実に従った結果のようにも見える。現代に限らず古代アテネにおいてもすでに問題視されていた議会制民主主義がエリート=マジョリティによって独占される寡頭制となる民主主義の劣化を防止するには、現在ではもはやその微弱な残光でしかない投票制に痕跡をとどめる「民主主義の本質であるくじ引きのスキャンダル」(ジャック・ランシエール『民主主義への憎悪』インスクリプト)が権力の寡占状態を反古にするしかない。ただし、『イキガミ』のなかでの「逝紙」は、賽子一擲としての神の手による偶然どころか、国家公務員によって管理・配達され、通達人は郵便配達人のように玄関先で死を宣告するところを隣人に立ち聞きされ、不在票を置いたまま気づかれないこともあるという杜撰な管理。これでは人知を超越するどころか、その選定過程そのものがすでに特定の権力者に掌握されたものとさえ思えてくる。このことはひとえに、ある種のリアリズムを追求することで成立している本作の設定にかかわる重大な欠損と言っても過言ではない。

◆さらに欠損は続く……いかなる抑圧状態にあっても起こりうべきレジスタンス、たとえばベトナム戦争時にアメリカ兵を脱走させた「不可視の「海」の広がり」(道場親信『抵抗の同時代史—軍事化とネオリベラリズムに抗して』人文書院)のような、いわばポピュリズム的抵抗史の可能性を、この物語は微塵も感じさせるところがない。外面的には現実の政治社会状況との相即を感じさせるリアリズムを装いながら、しかし実際には国家レベルでの抑圧状態を批判することもなく甘受する衆愚政治という一面的な歴史観で物語を展開することは、リアリズムを追求しながらもその追求の深度において甘いところがあると言わざるをえない。

◆それにしても、本作のベースとも言うべき「赤紙」によって生と死の両岸に分かたれた夫婦を濃厚なセンチメンタリズムで描くという着想は、戦時経験者たちが鬼籍に入ろうとする今日、近代帝国主義の末路ともいうべき世界史レベルでの力動、その渦中にあって帝国主義国家化を進めた日本の失墜、全体主義国家となりつつあるなかでの人民の弄ばれた命運など、そのすべてを継承することなく忘却した歴史的健忘症の産物でしかなく、率直にいって違和感を通り越して危機感さえ抱かせる。「赤紙」とともにありえたと信じる感涙の種子を史実を歪曲してまで増幅したのち、それをベースとして「逝紙」を巡るヒューマニズム・ドラマに翻案するという構想は、感動すれば事足れりとする作風の画一化に盲目的に従属する点で、決して軽くはない問題を抱えている。

◆したがって「逝紙」の物語のベースは、「赤紙」を巡るセンチメンタリズムの根底にある共同幻想としての戦争被害者意識によって支えられている。特攻隊員に象徴される美しき「散華」に由来するこの被害者意識。しかしそれは事実上「天災に出会ったとでも考える他はない、いわば「難死」であった」(小田実『「難死」の思想』岩波書店)とすれば、もはや『イキガミ』の依拠する礎石は風前の灯であり、戦争被害者としての自己表象のみで戦争加害者としての自覚をもちえない独善的なヒューマニズムは、感涙を呼ぶどころか、その落涙そのものが狂おしい自己愛からくる排外的ナショナリズムへの合意の告白でしかない。

◆しかしながら同時に、この物語の構想は、おそらく作者+編集者の与り知らぬところで、ここまで素描してきたような過去の全体主義国家・日本と今日の現実の日本社会の終着点との恐るべき符合関係を示唆しているという意味で、やはり一考に値することもまた事実。2008年中の映画化が予定されているという本作にいかなる評価を与えるか……それはそのまま、鑑賞者=評価者の見識を測る試金石であるといえる一点においてのみ、この作品の価値は生き存えている。


自虐系の終着駅、福満しげゆき『僕の小規模な失敗』

2008年7月15日 02:03 | 爆裂読書日記 | By: ピエールいがらし

僕の小規模な失敗 僕の小規模な失敗
福満 しげゆき

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◆自伝的作品は否応なく世相を反映する。藤子不二雄『まんが道』(中央公論新社)が数々の試練の末に漫画家として大成するサクセスストーリーであるのに対し、つげ義春『義男の青春・別離』(新潮社)は不遇のままの隠遁生活を余儀なくされるアンチ・サクセスストーリー。そして泡沫経済の終焉の痕跡すら見えなくなった慢性疲労=慢性不況をバックボーンにした2005年刊行の本作は、「ひきこもり」「ニート」「ネットカフェ難民」「若年ホームレス」「格差社会」など、およそ当事者意識を欠いたまま空洞化したレッテルが飛び交う社会状況のなかを、難破船よろしく浮遊する「僕」を支点とした定点観測の記録。

◆表題に偽りなく、本作で繰り広げられるイベントはいずれもことごとく「小規模」、というよりパラノイア的なまでに内向的な自己内対話に終始する。定時制高校卒業後に推薦で大学に入学するものの恋人はおろか友人すら皆無、消極的な理由で描きつづける漫画も鳴かず飛ばず、神経症気味の彼女を追いかけつづけるも振り回されるばかり。しかし数々の失敗にもかかわらず現実に働きかけるわけでもなく、ただでさえ細かく配置されたコマ(A5判1ページ平均12〜13コマ)の全体を覆うばかりに敷きつめられた長大な脳内対話が永遠の繰言のように連ねられる。

◆それにしても、この笑えなさはどこに起因するのか? たとえば年代設定と人物設定(漫画家志望)を共有している青野春秋『俺はまだ本気出してないだけ』(小学館)が醸しだす蔑視と共感の入り交じった笑いは、しかし本作にはおよそあてはまらない。異化作用による笑いという自伝的自虐系作品の常道は、この作品の前では沈黙。作者の巧拙ということ以上にその一番の理由は、主人公のたどる足跡があまりにありふれたものと感じられる既視感ゆえ。弘兼憲史『島耕作』シリーズが、現実にあるはずもない御都合主義的展開で逢瀬を重ねる一方で、経営論+労働論の活写によって世のサラリーマン(予備軍)のマニュアル本として機能してきたという噂もあながち嘘ではないと思わせるリアリティをもちえたのと真逆にではあるが、終わりなき不況の果ての失業率および自殺率増加に彩られた世相を濃密に披露する本作は、現実世界の再現性の高さゆえに、世相との距離感の近さゆえに、これを対岸の惨事と眺めるだけの猶予を与えてはくれない。

◆ブランショからデリダおよびドゥルーズ、そしてアガンベン『偶然性について』(月曜社)において結実したひとつの系譜を牽引してきたメルヴィル『バートルビー』の「I would prefer not to」(せずにすめばありがたいのですが)という独白、この独白があまりに似つかわしい時代精神に寄り添ったエンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』(新潮社)、さらにはトム・ルッツ『働かない』(青土社)と、おそらく世相を反映してのこと、昨今の(非)労働論のレフェランスは数限りない。「無為」という言葉によってこれらの系譜と共鳴する本作は、およそカタルシスをもたらすことも、まして反面教師となるほどの逆説的な有益性をもたらすこともないが、ただし労働観をはじめとする価値変動を生んだ土壌そのものを裸形のままに露呈する、ひとつの時代の不快なまでに誠実なドキュメントではある。



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